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東京高等裁判所 平成5年(ネ)3760号 判決

控訴人(被告) 株式会社片山組

被控訴人(原告) 西田修一

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

右部分に係る被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  控訴人

主文同旨

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二事案の概要及び争点

一  本件は、控訴人に雇傭されている被控訴人が、控訴人から自宅で病気(バセドウ病)を治療すべき旨の命令(以下「本件自宅治療命令」という。)を受け、控訴人に対し労務の提供をしなかった平成三年一〇月一日から同四年二月五日までの期間(但し、年次有給休暇の対象となった日を除く。以下「本件不就労期間」という。)のうち、同三年一〇月一一日から同四年二月五日までの期間の次の賃金及び同三年の冬期一時金の合計一八四万四七九七円(以下「本件賃金等」という。)及びこれに対する各括弧内に記載の弁済期の翌日から完済に至るまで年五分の遅延損害金の支払を求めている事案である。

1  賃金

(一) 平成三年一〇月一一日から同年一一月一〇日までの賃金

四二万三三〇六円(同年一一月二一日)

(二) 平成三年一一月一一日から同年一二月一〇日までの賃金

四二万三三〇六円(同年一二月二一日)

(三) 平成三年一二月一一日から平成四年一月一〇日までの賃金

四二万三三〇六円(平成四年一月二一日)

(四) 平成四年一月一一日から同年二月五日までの賃金

四二万一二九五円(同年二月二一日)

2  冬期一時金 一五万三五八四円(平成三年一二月一七日)

二  本訴請求の判断の前提となる事実関係のうち、次の各事実は、いずれも当事者間に争いがないか、後掲証拠及び弁論の全趣旨から認められるものである。

1  当事者に関する事実

(一) 控訴人は、土木建築の設計・施工・請負等を目的とする株式会社で、肩書地に本店(本社)を、大阪市、福岡市及び札幌市にそれぞれ支店を置き、その従業員は約一三〇名である。

(二) 被控訴人は、昭和四五年三月二三日、控訴人に雇傭され、以来、本社の工事部に配属され、建築工事現場における現場監督業務に従事してきたものであるが、昭和六三年四月五日以降、控訴人の従業員をもって組織された建築一般全日自労片山組分会(結成当初の名称は片山組労働組合。以下「訴外組合」という。)の執行委員長の立場にある。

2  本件自宅治療命令をめぐる事実

(一) 控訴人は、平成三年八月一九日、被控訴人に対し、同月二〇日から当時控訴人が東京都府中市南町に建設中の都営住宅の工事現場(以下「本件工事現場」という。)において現場監督業務に従事すべき旨の業務命令(以下「本件勤務命令」という。)を発した。これに対し、被控訴人は控訴人に対して、バセドウ病(以下「本件疾病」という。)に罹患しているため現場作業に従事することができない旨を申し出たが、同月二〇日から本件工事現場の勤務に就いた。

(二) 控訴人は、被控訴人に診断書の提出を求め、同年九月九日、被控訴人の主治医であった笠谷知宏の作成に係る同月七日付けの診断書(乙第八号証の一。以下「本件診断書」という。)が提出された後、更にその病状を補足して説明する書面の提出を求めたところ、同月二〇日、被控訴人が自らその病状を記載した回議箋(乙第九号証。以下「本件回議箋」という。)が提出されたため、同月三〇日付けの指示書(乙第一〇号証)をもって、被控訴人に対し、翌一〇月一日から当分の間自宅で本件疾病を治療すべき旨の本件自宅治療命令を発した。

(三) 本件自宅治療命令は、控訴人が平成四年二月五日に被控訴人に対して本件工事現場の勤務に従事すべき旨の業務命令(以下「本件復職命令」という。)を発するまで継続し、平成三年一〇月一日から平成四年二月五日までの期間、被控訴人が労務に服することはなかった。

3  本件賃金等に関する事実

(一) 賃金

控訴人は、本件不就労期間中被控訴人を欠勤扱いとし、平成三年一一月分から同四年一月分まで賃金を支給せず、同年二月分については二〇一一円(同月六日から同月一〇日までの分)を支給したのみである。

控訴人においては、賃金は、前月一一日から当月一〇日までの分を当月二一日(但し、銀行の非営業日に該当するときは順次繰り上げた日)に支給することになっていた。そして、控訴人が被控訴人に対し、平成三年一〇月までの直近三か月に支払った賃金額は同年八月分が四二万八四二七円、同年九月分が四二万七〇二三円、同年一〇月分が四一万四四六八円で、平均賃金額は四二万三三〇六円であるから、右の欠勤扱いによって支給されなかった賃金は前記一1の(一)ないし(四)の合計一六九万一二一三円となる。

(二) 冬期一時金

控訴人においては、従業員に対し、毎年七月に夏期一時金を、一二月に冬期一時金をそれぞれ支給することとしている。これら一時金は、基本給にその考課対象期間中の出勤率(所定就労日数から欠勤日数を控除した日数を所定就労日数で除した数値)を乗じ、これに各期について控訴人が決定する支給月数(基準月数)を乗じた金額(基準支給額)に、考課対象期間の考課による成績査定分を一〇〇〇円単位で加減し、最終的には原則として五〇〇〇円単位となるように決定することとされている。このうち、冬期一時金の考課対象期間は支給年の五月一一日から一一月一〇日までとされている。そして、控訴人は、平成三年の冬期一時金を同年一二月一七日に支給したが、被控訴人に対する冬期一時金の基準支給額は五九万三一五二円であった。

右の基準支給額は、前記の欠勤扱いによって本件不就労期間を含む冬期一時金の考課対象期間中の被控訴人の出勤率を一四一分の一一二として計算したものであって、右の欠勤扱いがされなければ、右期間中の被控訴人の出勤率は一となるから、これによる冬期一時金の基準支給額は七四万六七三六円となるので、被控訴人は、本来、控訴人から平成三年の冬期一時金として右の基準支給額との差額分である前記一2の一五万三五八四円の支給を受けることができた。

三  本件における争点は、被控訴人が、本件不就労期間中控訴人から本件自宅治療命令を受けて控訴人の業務に従事していなかったにもかかわらず、控訴人に対し、本件賃金等の支払を求めることができるのか否かであるが、この点に関する当事者双方の主張は、概略、次のとおりである。

1  被控訴人の主張

(一) 被控訴人は、本件疾病により本件工事現場における現場作業を完全に行うことは困難であったが、現場監督業務は、現場作業と事務作業とからなるところ、少なくとも事務作業を行うことは可能であったし、本件勤務命令を受ける前に従事していた本社の工事本部工務監理部(以下「工務監理部」という。)における事務作業は可能であった。

(二) 控訴人は、被控訴人が右の労務を提供することが可能であったにもかかわらず、本件自宅治療命令を発し、その後、本件復職命令を発するまでの期間、被控訴人が業務に従事することを拒絶したものであって、本件自宅治療命令は、その必要がなかったものであるから、本件不就労期間中被控訴人が控訴人の労務に服しなかったとしても、控訴人に対する報酬請求権を失うものではない。

(三) また、控訴人が、被控訴人に対して右のとおりに不必要な本件自宅治療命令を発したのは、訴外組合の結成当初からの執行委員長であった被控訴人の組合活動を嫌悪し、被控訴人が本件疾病に罹患していることを奇貨として、被控訴人の就労を拒絶して職場から排除し、賃金等の支払を拒絶するという不利益を与えることにより、他の従業員に対する見せしめとし、訴外組合の弱体化を狙ったものでもあって、本件自宅治療命令は不当労働行為にも該当する無効なものであるから、被控訴人が控訴人の業務に従事していないとしても、控訴人に対する報酬請求権を失うものではない。

2  控訴人の主張

本件自宅治療命令は、被控訴人が提出したその主治医の作成に係る本件診断書、控訴人自身の作成に係る本件回議箋などから、被控訴人が本件工事現場における現場監督業務に従事することはできないと判断して発せられたものである。被控訴人の申し出た病状によれば、労務者の健康管理に配慮すべき使用者としても当然の措置であって、被控訴人主張のように不必要な措置でも、不当労働行為に該当するものでもない。

第三証拠〈省略〉

理由

一  前提となる事実関係

1  当事者に関する事実及び本件自宅治療命令に関する事実は、前記「事案の概要及び争点」の項の二に記載したとおりである。

2  右各事実並びにいずれも成立の真正について当事者間に争いのない乙第二、第六及び第七号証、同第八号証の一及び二、同第九及び第一〇号証、同第四八号証、原審における証人吉村茂の証言(第一、二回)、原審及び当審における証人舩越俊光の各証言及び被控訴人の各本人尋問の結果、当審における証人森永方正の証言と弁論の全趣旨とを総合すれば(右の各証言及び被控訴人本人尋問の結果中、次の認定に反する部分を除く。)、本件自宅治療命令をめぐる事実関係として、更に次の各事実を認定することができ、この認定を左右するに足る証拠はない。

(一)  被控訴人は、控訴人に雇傭されてから現在に至るまで工事部に配属され、現場監督業務に従事してきた。

被控訴人は、平成二年夏、当時控訴人が建設中の名倉堂ビルの建築工事現場において現場監督業務に従事していた際、体調に異変を感じ、慶応義塾大学病院において受診したところ、本件疾病に罹患している旨の診断を受け、以後、同病院に通院して治療を受けていたが、控訴人に対して本件疾病に罹患している旨の申出をすることなく、右の現場監督業務を続けていた。

被控訴人は、右の現場監督業務を終えた平成三年二月から、次の現場監督業務が生ずるまでの間の臨時的、一時的業務として、工務監理部において図面の作成などの事務作業に従事していたところ、同年八月一九日、控訴人の本社工事本部長である舩越俊光から本件勤務命令を受けた。

(二)  被控訴人は、本件勤務命令を受けた際、舩越本部長に対し、本件疾病に罹患しているので、現場作業はできない旨の申出をし、翌二〇日、本件工事現場に赴任した際にも、現場責任者である工事課長の森永方正に対し、本件疾病に罹患しているため、現場作業に従事することができず、残業も午後五時から午後六時までの一時間に限られ、日曜及び休日の勤務は不可能である旨の申出をし、更にその後、被控訴人を執行委員長とする訴外組合も、控訴人との団体交渉において、本件勤務命令の当否を問題にし、同年九月五日付けの質問書では、被控訴人の労務につき、〈1〉現場作業には従事できない、〈2〉就業時間は午前八時から午後五時まで、残業は午後六時までとする、〈3〉日曜、祭日、隔週土曜を休日とするとの三条件を控訴人が認めるか否かの回答を求めた。

(三)  控訴人は、被控訴人の病状に関する診断書の提出がないことから、訴外組合の質問に対しては、「病気のことは知らない。就業条件は会社就業規則のとおりとする。」との回答をするにとどまったが、同月九日、被控訴人から本件診断書が提出されたところ、これによれば、被控訴人は、「現在、内服薬にて治療中であり、今後厳重な経過観察を要する。」というのであった。

しかし、控訴人は、本件診断書の記載では、被控訴人の病状が必ずしも判然としないため、被控訴人に対し、更にその病状を補足して説明する旨の書面の提出を求め、同月二〇日、控訴人から自らその病状を記載した本件回議箋が提出されたが、これによると、被控訴人は、本件疾病の治療中で、「疲労が激しく、心臓動悸、発汗、不眠、下痢等を伴い、抑制剤の副作用による貧血等も症状として発生しています。今だ暫く治療を要すると思われます。」というのであり、訴外組合が前記の質問書によって控訴人に対して回答を求めた被控訴人の労務に関する三条件を認めることが不可欠であるというのであった。

そこで、控訴人は、被控訴人が本件勤務命令に係る本件工事現場の現場監督業務に従事することは不可能であり、また、被控訴人の健康面・安全面でも問題を生ずると判断して、本件自宅治療命令を発した。

(四)  被控訴人ないし訴外組合は、本件自宅治療命令が発せられた後も、右の要求を続け、特に被控訴人が本件疾病にもかかわらず現場監督業務のうちの事務作業あるいは工務監理部における事務作業を行うことができる根拠として、被控訴人の主治医である前記笠谷医師の作成に係る平成三年一〇月一二日付けの診断書(乙第八号証の二)を提出した。これによれば、被控訴人は「現在経口剤にて治療中であり、甲状腺機能はほぼ正常に保たれている。中から重労働は控え、デスクワーク程度の労働が適切と考えられる。」というのであった。

控訴人は、前記診断書にも、被控訴人が現場監督業務に従事しうる旨の記載がないことから、自宅治療命令を持続していた。

その後、被控訴人から控訴人に対して賃金の仮払いを求める仮処分が申請されたが、右仮処分事件における審尋の過程において、笠谷医師に意見を求めることになり、平成四年一月、同医師から被控訴人の病状に関する意見を聴取したところ、同医師の意見では、本件診断書に記載された「今後厳重な経過観察を要する」との記載は、医師の患者に対する一般的な指示を記載した程度のものであること、被控訴人が本件回議箋に記載した病状は本件疾病が発症した平成二年当時の病状を記載したものではないかということのほか、平成四年一月時点では、被控訴人の症状は仕事に支障がなく、スポーツも正常人と同様に行いうる状態であることなどが明らかになったため、控訴人は、同年二月五日、被控訴人に対し、本件工事現場で現場監督業務に従事すべき旨の本件復職命令を発した。

これに対し、被控訴人は、本件復職命令が発せられた後には、事務作業程度の労務の提供しかできないとして、控訴人に対し本件復職命令につき異議を申し出るということもなく、本件工事現場における現場監督としてその業務に従事することになった。

3  以上に認定した事実関係に照らすと、被控訴人は、本件勤務命令を受けた際、控訴人に対し、本件疾病を理由として、現場監督業務のうち事務作業又は工務監理部の事務作業に係る労務の提供をすることができるが、その余の業務に係る労務の提供を拒否する旨の意思を表示したものというべきであり、これに対し、控訴人は被控訴人に対し、本件自宅治療命令を発することにより、右労務の受領を拒否したものというべきである。なお、本件自宅治療命令のうち、被控訴人に対して本件疾病の治療を命じた部分が業務命令として有効であるか否かは、右の判断を左右するものではない。

二  本訴請求に対する判断

1  ところで、労働者が、その故意若しくは過失に基づくことなく、また、使用者との雇傭契約に基づいて従事していた業務に起因することなく罹患した病気(以下「私病」という。)のため、右雇傭契約に基づいて使用者に対して提供すべき労務の全部又は一部の履行が不能となった場合、当該雇傭契約又は労働協約等において、当該労働者が使用者に対し、賃金の全部又は一部を請求することができる等の定めがあるときは格別、そうでない限り、労務の全部の提供ができず履行不能となったときには、労働者は使用者に対し、賃金債権を取得する余地はないと解すべきであり(民法五三六条一項)、労務の一部のみの提供が可能であるが、その余の労務の提供ができないときには、右可能な部分の労務のみの提供は、労働者の雇傭契約上の債務の本旨に従った履行の提供とはいえないのであるから、原則として、使用者は右労務の受領を拒否し、賃金支払債務を免れうるものというべきであるが、提供不能な労務の部分が右契約上提供すべき労務の全部と対比して量的にも質的にも僅かなものであるか、又は、使用者が、当該労働者の配置されている部署における他の労働者の担当労務と調整するなどして、当該労働者において提供可能な労務のみに従事させることが容易にできる事情があるなど、継続的契約関係にある使用者と労働者との間に適用されるべき信義則に照らし、使用者が当該可能な労務の提供を受領するのが相当であるといえるときには、使用者は当該労働者の提供可能な労務の受領をすべきであり、使用者がこれを拒否したため、当該労働者が労務の提供をすることができず、その履行が不能となったとしても、右労働者は履行したとすれば雇傭契約に基づき取得しうべき賃金債権等を喪失するものではないと解するのが相当である(民法五三六条二項)。そして、労働者が、使用者に対し、私病を理由として、労務の一部のみの提供が可能であるが、その余の労務の提供ができない旨の申出をし、債務の一部の履行拒絶の意思を明らかにしたときには、使用者において、右労務の提供を受領すべきかどうかの判断にあたっては、当該私病の性質・程度、当該労働者の担当する労務の内容等に照らし、右労働者の申出に疑念をもつのが相当といえる事情のない限り、使用者としての立場から格別の医学的調査を経ることを要するものではないというべきである。

また、使用者が、私病に罹患した労働者の提供する労務を当該雇傭契約上の債務の本旨に従ったものではないとして、その受領を適法に拒絶した場合においては、その後、右労働者が、当該私病が治癒又は軽快し、右債務の本旨に従った労務の提供ができる状況になったことを使用者に明らかにし、その受領を催告しない限り、右雇傭契約に基づく賃金債権等を取得する余地はないというべきであり、使用者において、自ら進んで、当該労働者の私病につき医学的調査をして、就労することができるような状況になったかどうか等を検討し、かかる状況になったときには、就労を命じるべきであるとの義務を信義則上も負うとはいえないものと解すべきである。

2  以下、右のような見地に立って、本件について検討することとする。

(一)  弁論の全趣旨によると、被控訴人の本件疾病は、その故意若しくは過失に基づくものではなく、かつまた、控訴人の下で従事してきた現場監督業務に起因して罹患したものではなく、私病であると認められる。

(二)  控訴人と被控訴人との雇傭契約又は控訴人と訴外組合との労働協約等において、控訴人に雇傭されている労働者が、私病に罹患したため控訴人に対して提供すべき労務の全部又は一部の履行をすることが不能となった場合に、控訴人に対し、賃金債権を取得する等の定めがあることについては、当事者の主張・立証しないところである。

(三)  被控訴人は、本件不就労期間中、控訴人に対して労務を提供することが可能であった旨主張するが、弁論の全趣旨によれば、その労務の内容は、後記認定の本件工事現場における現場監督業務のすべてではなく、そのうちの事務作業又は本件勤務命令を受ける直前に従事していた工務監理部における事務作業であることが明らかである。そして、前記認定の事実関係に照らすと、本件不就労期間中、控訴人は、本件疾病に罹患していたため、現場監督業務のうち中ないしは重労働を含む現場作業に係る労務の提供は不可能であり、現場監督業務のうち事務作業に係る労務の提供のみが可能であったものというべきである。

(四)  そこで、現場監督業務のうち、被控訴人において履行が不能であった現場作業の占める量的・質的な程度、控訴人が、信義則上、被控訴人を事務作業に従事させるのが相当といえる事情があったかどうか等につき、検討することとする。

いずれも成立の真正について当事者間に争いのない乙第三九号証、同第四〇号証の一ないし一七、同第四一号証の一ないし一九、同第四二号証の一ないし八三、同第四八号証、同第五〇号証、いずれも当審における証人森永方正の証言により成立の真正を認めることができる同第五七号証、同第五八号証、同第五九号証の一、二及び同第六〇号証ないし六二号証、前掲原審及び当審における証人舩越俊光の各証言並びに当審における証人森永方正の証言によると、以下の各事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(1) 本件工事現場において控訴人が施工していた都営住宅(七階建、室数五六戸の共同住宅、二階部分までが鉄骨鉄筋コンクリート造、三階以上が鉄筋コンクリート造の仕様)建築工事は平成三年二月に着工し同四年九月竣工予定で進められたものであるが、被控訴人が本件勤務命令により本件工事現場において就労した平成三年八月二〇日から同年九月末までにおいて施工された工事は、鉄骨の建方工事、地中梁築造のためのコンクリート工事、鉄筋工事、型枠工事及び埋戻工事等であり、本件不就労期間中に施工予定ないしは実施された工事は、一階以上の躯体工事(型枠組立・解体工事、鉄筋工事、鉄骨工事、配筋組立・圧接、コンクリート打設工事等)であった。

(2) 現場監督業務は、〈1〉現場作業と〈2〉事務作業とに大別され、〈1〉現場作業は、右工事が設計どおりに適切に施工され、予定どおり工事が進行するよう下請け業者等を指揮監督することを主要な内容とする現場管理及び現場巡視と工事現場における安全管理とからなり、また、〈2〉事務作業は対外交渉、予算管理、右工事に応じて生じる図面の作成及び各種報告書の作成、作業内容の打合せ・確認、工事段取り、職人・材料手配等からなるが、そのうち対外交渉及び予算管理は、本件工事現場においては、現場責任者である森永課長が主として担当し、その余の現場監督者(本件不就労期間中は二名)の担当する事務作業は前記事項のその余の作業であり、現場監督業務としては付随的なものであって、しかも右事務作業も現場作業と照合して行う必要があるものが多く、単に事務所のみですることの出来る作業は補足的なもので限られたものであり、また、工事が進行するにつれ事務作業は徐々に減少するものであって、本件不就労期間当時、本件工事現場における現場監督業務のうち事務作業の占める割合は、森永課長以外の現場監督者においては全作業内容の二割を下回る程度に過ぎず、また、単に事務所のみですることの出来る補足的作業は全作業内容の一割に達しない程度であった。

(3) 右認定の事実関係によれば、本件不就労期間中、本件工事現場において、森永課長以外の現場監督者の担当する現場監督業務の主要な内容は質、量とも現場作業がほとんどであり、事務作業は補足的なものに過ぎず、また、現場作業に従事することなく遂行できる事務作業は量的にも僅かなのであるから、被控訴人が現場作業に従事することなく遂行可能な補足的事務作業に係る労務を提供することが可能であったとしても、控訴人において、他の現場監督者の担当する右補足的事務作業を被控訴人に集中し担当させても、量的には僅かなものであり、信義則上被控訴人に集中して担当させる措置をとって被控訴人に担当させることが相当であったとはいえないものというべきである。

(4) 被控訴人は、本件勤務命令前に従事していた工務監理部における事務作業をも斟酌すべきである旨主張するが、前記認定のとおり、工務監理部における事務作業は臨時的、一時的なものであり、恒常的に存在するものではないのであって、本件不就労期間中に右事務作業が具体的に存在したことについては、これを認めるに足る証拠はないから、右事務作業を斟酌することはできないものというべきである。

(五)  そして、前示の事実関係に照らすと、控訴人が、被控訴人に対し、本件自宅治療命令を発することにより、被控訴人からの事務作業に係る労務の提供の受領を拒否するにあたって、被控訴人の本件回議箋による本件疾病についての被控訴人自身の自覚症状、可能な労務の内容等の説明及び本件診断書につき疑念をもつべき事情があったとはいえないから、使用者としての立場に基づき、改めて医学的調査をすべきであったとはいえない。

(六)  また、本件自宅治療命令後本件復職命令までの間に、被控訴人が、控訴人に対し、本件疾病が治癒又は軽快し、控訴人との雇傭契約上の債務の本旨に従った労務の提供ができるような状況になったことを明らかにし、その受領を催告したとの事実は、当事者の主張・立証しないところである。

3  被控訴人は、本件自宅治療命令が訴外組合の執行委員長である被控訴人に対して就労の機会を奪い、不利益を与え、訴外組合の活動を妨害するための不当労働行為であるとも主張する。

しかしながら、控訴人が、被控訴人の本件工事現場における現場監督業務の一部である事務作業に係る労務のみの提供を受領しなかったことにつき、信義則上これを受領するのが相当というべき事由がなく、本件不就労期間中被控訴人の控訴人に対する債務の履行が不能となったのであるから、被控訴人は控訴人に対し、本件不就労期間に係る本訴請求の賃金債権及び冬期一時金債権を取得しないことは前示のとおりであるところ、被控訴人の不当労働行為に係る右の主張は、右各債権の発生要件又は消滅障害事由のいずれにも該当しないことが明らかであるから、主張自体失当というべきである。のみならず、控訴人が、被控訴人に対し、本件自宅治療命令を発し、被控訴人が提供可能であるとした事務作業に係る労務のみの受領をしなかったのが、被控訴人の右主張のような事由に基づいてされたことは、本件全証拠をもってしても認めるに足りないから、右主張はこの点からも理由がないものというべきである。

三  以上説示のとおり、本訴請求はいずれも理由がなく、これを棄却すべきものであり、したがって、原判決中控訴人敗訴の部分は相当ではないから、これを取り消し、右部分に係る被控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 柴田保幸 伊藤紘基 滝澤孝臣)

参照

原審判決の主文、事実及び理由

主文

被告は原告に対し、一八一万九六四五円及びうち四二万三三〇六円に対する平成三年一一月二二日から、うち四二万三三〇六円に対する同年一二月二二日から、うち一二万八四三二円に対する同月一八日から、うち四二万三三〇六円に対する同四年一月二二日から、うち四二万一二九五円に対する同年二月二二日から各支払済みまでそれぞれ年六分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は被告の負担とする。

この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は原告に対し、一八四万四七九七円及びうち四二万三三〇六円に対する平成三年一一月二二日から、うち四二万三三〇六円に対する同年一二月二二日から、うち一五万三五八四円に対する同月一八日から、うち四二万三三〇六円に対する同四年一月二二日から、うち四二万一二九五円に対する同年二月二二日から各支払済みまでそれぞれ年六分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、使用者である被告が従業員である原告に対し、原告の病気(バセドウ病)を理由に自宅において治療することの業務命令を発し、この間の賃金を支払わなかったので、原告が被告に対し、右業務命令はその必要性なくして、または、不当労働行為として発せられたものであるから無効であるとして、右の間の賃金の支払を求めた事案である。

一 争いのない事実

1 当事者関係

被告は、昭和二七年五月一日、土木建築の設計施工請負等を目的として設立された株式会社であり、資本金は六億四二六五万円、肩書地に本店を、札幌、大阪、福岡各市にそれぞれ支店を有し、約一三〇名の従業員を擁している。

原告は、昭和四五年三月二三日、被告に雇用され(但し、原告は、雇用年月日を同年四月一日と主張するが、乙一七号証によると、雇用年月日は同年三月二三日と認められる。)、工事部に配属され、建築工事現場における工事監督業務に従事してきたとともに、同六三年四月五日、被告の従業員をもって組織された建築一般全日自労片山組分会(但し、結成当時の名称は片山組労働組合である。以下「分会」という。)の結成当時からの執行委員長の地位にある。

なお、分会は、上部団体である全日自労建設農林一般労働組合に加盟している。

2 自宅治療命令

原告は、平成三年二月から同年八月まで本社事務所において施工図面、実行予算書等の作成に従事していたところ、被告は原告に対し、同月一九日、同月二〇日から都営住宅府中市南町の建築工事現場(以下「本件工事現場」という。)に勤務することを命じた(以下「本件現場勤務命令」という。)。

これに対し、原告は、病気であることを理由に現場作業には従事できないこと及び定時から定時までしか勤務できないことを述べながらも、同月二〇日から本件現場勤務に就いた。

その後、被告は原告に対し、医師の診断書の提出を求めたので、原告は、同年九月九日、被告に主治医作成の同月七日付診断書を提出したところ、被告は原告に対し、翌一〇日、病状を補足説明する書面の提出を求めたので、原告は被告に対し、同月二〇日、書面(回議箋用紙)を提出した。

これに対し、被告は原告に対し、同月三〇日、同日付指示書と題する書面をもって同年一〇月一日以降当分の間自宅治療を命じるとの業務命令(以下「本件自宅治療命令」という。)を発した。そして、本件自宅治療命令は、被告が原告に対し、平成四年二月五日、同月四日付指示書をもって本件工事現場に勤務することを命じたまでの間継続した。

3 賃金の不支給

(一) 月例賃金

被告は、本件自宅治療命令の間、原告を欠勤扱いとし、平成三年一一月分から同四年一月分までの賃金を支給せず、同年二月分については二〇一一円(同月六日から同月一〇日までの分)を支給したのみである。

賃金は、前月一一日から当月一〇日までの分を当月二一日(但し、銀行の非営業日に該当するときは順次繰り上げた日)に支給することとなっていた。

被告が原告に対し、平成三年一〇月までの直近三か月に支払った賃金額は同年八月分が四二万八四二七円、同年九月分が四二万七〇二三円、同年一〇月分が四一万四四六八円で、平均賃金額は四二万三三〇六円である。

(二) 冬期一時金

被告にあっては、その従業員に対し、毎年七月に夏期一時金を、一二月に冬期一時金をそれぞれ支給することとしている。これら一時金は、基本給にその考課対象期間中の出勤率(所定就労日数から欠勤日数を控除した日数を所定就労日数で除した数値)を乗じ、これに各期について被告が決定する支給月数(「基準月数」といわれる。)を乗じた金額(「基準支給額」という。)に、考課対象期間の考課による成績査定分を一〇〇〇円単位で加減し、最終的には原則として五〇〇〇円単位となるように決定することとされている。このうち、冬期一時金の考課対象期間は、支給年の五月一一日から一一月一〇日までとされている。

そして、被告は、平成三年の冬期一時金を、同年一二月一七日支給したが、原告に対する諸控除前の支給額は五六万八〇〇〇円であった。

二 争点

本件自宅治療命令の適法性とこの間の原告の賃金請求権の有無である。

1 本件自宅治療命令の適法性について

(一) 原告の主張

(1) 必要性の欠如

本件自宅治療命令は、原告には自宅治療を要する必要がなかったにもかかわらず発せられたのであるから、無効である。

原告の主治医は、平成三年一〇月一二日付診断書で原告が本社においてデスクワークなら就労可能と診断している。

(2) 不当労働行為

本件自宅治療命令は、不当労働行為として無効である。

被告は、分会結成当初からこれを嫌悪し、原告が分会の中心人物として活躍していたので、口実を設け、原告の就労を拒絶して職場から排除し、賃金を支払わないという不利益を与えることによって、他の従業員に対する見せしめにし、組合の弱体化を狙ったからに他ならない。

(二) 被告の主張・認否

(1) 必要性の欠如について

本件自宅治療命令がその必要性がないにもかかわらず発せられたとの点は否認する。

被告は、原告の提出した主治医の診断書、原告の病状報告書及び原告の現場監督業務遂行は不可能であるとの上司に対する訴え等から、原告の就労は困難であると判断して本件自宅治療命令を発したのであり、従業員の健康管理に配慮すべき立場にあったのであるから、使用者として当然の措置であった。

(2) 不当労働行為について

被告が本件自宅治療命令を原告の主張するような不当労働行為意思の下になしたことは否認する。

被告は、分会を嫌悪したこともなければ弱体化しようとしたこともない。

2 賃金請求権の有無について

(一) 原告の主張

(1) 月例賃金について

原告がそもそも受領すべき月例賃金額と実際の支給額との差額は、平成三年一一月分ないし同四年一月分まで各四二万三三〇六円、同年二月分が四二万一二九五円となり、これらの合計額は一六九万一二一三円となる。

(2) 冬期一時金について

平成三年の冬期一時金の考課対象期間である同年五月一一日から同年一一月一〇日までの所定労働日数は一四一日であり、原告は、この間の同年九月末日まで欠勤しておらず、同年一〇月以降も本件自宅治療命令に基づく欠勤扱い以外には欠勤はなかった。したがって、同年冬期一時金についての原告の出勤率は本来であれば一となる。そして、被告の定めた同年冬期一時金の基準月数は二・四か月であり、当時の原告の基本給は三一万一一四〇円であったので、原告の基準支給額は七四万六七三六円となり、これに成績査定分の加減がなされた金額が支給されるべきであった。

しかし、被告は、原告が有給休暇権を行使した同年一〇月一日を除く同月二日以降同年一一月一〇日までの考課対象期間の全てを欠勤扱いとしたので、原告の出勤率は一四一分の一一二とされ、この結果、原告の基準支給額は五九万三一五二円とされた。

このようなことから、被告は原告に対し、平成三年の冬期一時金として、少なくとも右支給されるべきであった基準支給額七四万六七三六円と右支給することとなった基準支給額五九万三一五二円との差額分一五万三五八四円を減額支給した。

なお、被告の原告に対する前記(一の3の(二))冬期一時金の支給額は欠勤扱いによる出勤率の減率による減額以外に、成績査定分の減額四万五一五二円をなした結果と考えられるが、本訴においては、欠勤扱いによる不払分、すなわち、右基準支給額の差額分の請求をする。

(二) 被告の主張

(1) 月例賃金について

原告にその主張する月例賃金請求権のあることは争う。

本件自宅治療命令は、原告が被告に対し、真実はバセドウ病の自覚症状がなくなり身体の調子が良くなって、通常人と同様に仕事ができるまでに回復していたにもかかわらず、これを偽り、発病当時の病状をあたかも現在の症状であるかのように虚偽の申告をしたことによって発せられたのであるから、被告には、民法五三六条二項の帰責事由はなく、賃金不支給の不利益は原告において負担すべきものである。

(2) 冬期一時金について

原告にその主張する差額分の請求権のあることは争う。

第三争点に対する判断

一 本件自宅治療命令の適否

証拠(甲二及び三、乙六、七、八の一及び二、九ないし一四、一六の一及び二、一七、一八、証人吉村茂、同舩越俊光の各証言、原告本人の供述)によると、次の事実を認めることができる。

1 原告の配属部署と担当職務

原告は、被告に雇用されて以来工事本部第二工事部(但し、平成三年六月の組織変更前は工事部)に配属されて現場監督業務(役職は作業所主任)に従事してきた。工事部に配属された従業員の主な業務内容は、工事現場の監督であるが、この仕事内容は、予算管理(請負契約の見積りに基づいた実行予算書を作成し、これに従った資財等の発注をすること)、技術工程管理(施工図面を作成し、これに基づいて現場作業に従事する職人、労務者の技術指導、管理等を行い、工事を予定どおり進行させるように管理すること)、労務管理(現場で作業する職人、労務者を指導管理すること)、安全管理(現場で作業する作業員、職人、労務者の安全を管理すること)であり、一の工事の現場監督業務が終了したときには次の現場監督業務に従事することとなっていたが、次の工事が決まっていないときには待機することとなり、この期間は、通常短い時で約一か月、長い時で約一年間であり、この間、施工図面の作成等に従事することとなっていた。原告の場合も同様であって、原告は、平成元年八月から同三年二月まで被告が請け負った名倉堂ビル新築工事の現場監督業務に従事していたが、これが終了した以降次に原告の担当すべき現場監督業務が決まっていなかったので、本件現場勤務命令発令までの間、本社で待機することとなり、その間の同年三月から同年五月まで渋谷区神宮前所在の原宿KY新築工事ビルの仮設計図面の作成(但し、全部で二〇枚作成した内の原告作成枚数は八枚)に従事し、同年六月から同年八月まで板橋区高島平所在の西台マンション等の実行予算書の作成に従事していた。

なお、被告にあっては、同年六月、右各種図面、実行予算書等の作成を担当する部門として工事管理部を新設した。

原告は、平成三年六月一四日、同管理部部長鷺修身(以下「鷺部長」という。)から工事本部第二工事部から同本部工務管理部に配置替えとなる旨口頭で述べられた旨供述するが、この供述は証人舩越俊光の証言と対比してにわかには信用することができない。

2 原告のバセドウ病発病と治療の経緯

原告は、前記名倉堂ビル新築工事の現場監督業務に従事中の平成二年八月ころ、異常な疲労感に襲われ、同月二日、慶応義塾大学病院で診察を受けたところ、バセドウ病の疑いがあるとの診断を受け、さらに、同月一六日、バセドウ病と診断された。当時の原告は、同病が特異な病気で遺伝の問題があるので他人には知られたくないと考えていたので、被告には病状報告をしなかった。そして、原告は、右現場監督業務に従事しながら、主に同病院医師笠谷知宏(以下「笠谷医師」という。)から薬物服用による通院治療を受けることとなった。右同日、甲状腺ホルモン値は中位の高さ(通常の約四倍)で、薬物としてメルカゾール二〇ミリグラムの服用から開始し、同月二五日には、病状に変化がなく、同年九月八日には、メルカゾールを三〇ミリグラムに増量し、ヨード剤を加えた。同月二二日には、病状は軽快に向かっていたが、下痢が依然として続いており、メルカゾールの服用を継続することとし、同年一〇月二〇日には、症状に変化なく、従前と同様の治療方法を継続することとし、同年一一月一〇日には、顔が火照る旨を訴え、下痢気味であったが、甲状腺ホルモン値は正常値の中の上と可成正常に近付き、同年一二月八日には、怠い旨を訴え、下痢が続いていたが、甲状腺ホルモン値は正常値の中位にあり、従前どおりの薬量療法を継続することとし、平成三年一月五日には、甲状腺ホルモン値は正常値の最下位近くまで低下しており、心臓脈抑制剤の投与を中止し、同年二月二日には、メルカゾールを二〇ミリグラムに減少し、ヨード剤の服用を継続することとし、同年三月二日には、甲状腺ホルモン値は正常値の下限を少し下回り、下痢が治まったので下痢剤の服用を中止し、同年三月二〇日には、自覚症状は略消失し、ヨード剤の服用を中止し、メルカゾールを一五ミリグラムに減らし、同年四月二七日には自覚症状も特になく、同年六月一日には、疲れやすい旨を訴えたが、日常の怠いのは薬で甲状腺ホルモン値を低めにしているためであって、日常生活には支障がなかったので、原告に辛抱するように説得し、そして、メルカゾールを一〇ミリグラムに減らした。甲状腺ホルモン値は正常値の下よりもさらに下位となった。同年七月一三日には、怠い旨訴えていたが、メルカゾール一〇ミリグラムの服用を継続することとし、甲状腺ホルモン値は正常となった。同年八月三日には、身体の調子は良く、メルカゾール一〇ミリグラムを継続服用することとし、同年九月七日には、特に問題の症状はなく、甲状腺ホルモン値も正常であったが、メルカゾール一〇ミリグラムの服用を継続することとし、同年一〇月五日には、自覚症状はなく、メルカゾールを五ミリグラムに減少した。そして、同年一一月二日には、身体の調子は良く、甲状腺ホルモン値は正常であり、メルカゾール五ミリグラムの服用を継続することとし、同年一二月七日には、身体の調子は良く、メルカゾール五ミリグラムの服用を約半年間継続することとした。

3 本件自宅治療命令の発出

本件建築工事は、被告が東京都から請け負った都営住宅建替工事であり、平成三年五月ころ着工し、同年八月から鉄骨工事にとりかかった。当時、右工事を担当していた現場監督者は工事本部第二工事部第一課課長森永方正(以下「森永課長」という。)と社員の清水との二名であったが、被告は、現場監督業務が多忙となったことと、書類の作成事務とが増大したため、原告と社員一名とを増員することとした。そこで、工事本部長舩越俊光(以下「舩越本部長」という。)は原告に対し、同年八月一九日、原告の直属の上司である同本部第二工事部部長鈴木裕(以下「鈴木部長」という。)の他鷺部長同席のうえで、事務所において、本件現場勤務命令を発した。これに対し原告は、「自分は病気である、現場作業はできない。」と述べた。そこで、舩越本部長は、病気であるならば、森永課長と相談のうえ診断書を提出する等の必要な手続を経ることを指示し、原告の現場における仕事内容、期間等の質問に対し、仕事内容は現場担当者の指示に従うこと、期間は工事が完成するまで、と答えた。

原告は、同年八月二〇日、本件現場に赴任したが、この赴任に際し、森永課長に対し、バセドウ病に罹患しているので現場作業はできないこと、午後六時以降の残業はできないこと、日曜、祭日等の休日出勤はできないことの三点を要望した。これに対し、森永課長は原告に対し、右要望を容れて、現場事務所においての各種図面の作成、必要書類の作成業務に従事させ、午後六時以降の残業及び休日出勤を命じなかった。

同月二九日、分会と被告との間で分会員であった松山の定年退職問題につき団体交渉が開催されたが、この終了ころ原告は、被告の交渉委員として出席していた専務取締役吉村茂(以下「吉村専務」という。)らに対し、原告はバセドウ病で治療中なので休日労働はできない、午後六時以降の残業はできない、現場監督の仕事も制限付でしかできない旨の発言をした。これに対し、吉村専務は、文書をもって提出するように答えた。そこで、分会は被告に対し、同年九月五日、同日付質問書をもって、原告はバセドウ病の治療中であり、現場作業には従事できないこと、就業時間は午前八時から午後五時までで、残業は午後六時までとすること、休日は日曜、祭日、隔週土曜日とすること、以上を認めるか否かを回答するように要求した。これに対し、被告は、同月九日、同日付回答書をもって、「病気等の件は知らない、就業条件は就業規則のとおりとする。」等の回答をした。このことから、原告は森永課長に対し、同月一〇日ころ、笠谷医師作成の同月七日付診断書を提出した。これには、病名はバセドウ病で、「現在内服薬にて治療中であり、今後厳重な経過観察を要する。」と記載されていた。そこで、舩越本部長は、さらに詳細に原告の病状を把握する必要があるものと考え、森永課長を通じて原告に対し、病気の具体的な症状と被告に要求すべきことの二点を文書をもって提出するよう指示した。そこで、原告は森永課長に対し、同月二〇日、文書(回議箋用紙)をもって「バセドウ病(甲状腺機能亢進症)の治療中であり、疲労が激しく、心臓動悸、発汗、不眠、下痢等を伴い、抑制剤の副作用による貧血等も症状として発生しています。今だ暫く治療を要すると思われます」、「担当医師が『今後厳重な経過観察を要する』と診断の通り、治療の為、本人所属の組合の九月五日付質問書第四項の労働条件は不可欠と思います。」と記載し、これを提出した。

原告から右のような診断書の提出と症状報告とを受けた被告は、同年九月下旬ころ、社長、吉村専務、舩越本部長、鈴木部長、森永課長らで原告に対する処遇を検討し、右回議箋用紙の記載内容と右九月七日付診断書の「今後厳重な経過観察を要する」との記載内容とを重視し、この他に原告の舩越本部長、森永課長に訴えたこと等とを考慮して総合的に判断した結果、被告の産業医に相談するまでもなく、原告が訴えている症状であれば健康を回復して現場監督業務に従事させることのできるまでの間、自宅で病気治療に専念させることが妥当であるとの結論に達し、そこで、被告は、本件自宅治療命令を発した。

4 本件自宅治療命令発出に対する原告及び分会の対応

原告は、本件自宅治療命令は不当であると考え、平成三年一〇月二日から同月四日まで就労の意思を表示する趣旨で本件工事現場に赴いたが、その間の同月三日、森永課長は原告に対し、就労は認めない旨を述べた。

被告は原告に対し、同年一〇月初め、健康保険組合宛ての傷病手当・同附加金請求書を送付した。これに対し、分会は、同月四日、同日付「抗議書及び要求書」をもって、原告は、「病気治療中であるが、就業は可能であったし、就業の意思表示もしている。にもかかわらず貴殿が一方的に『自宅治療を命じる』としていることは(原告)の働く権利を奪い、生活を脅かすものであると共に、組合つぶしをねらった不当労働行為であり、断固抗議する。」、原告に対する本件自宅治療命令を「即時撤回し、前部署の工務管理部にて就業させることを強く要求する。」と抗議と要求とをした。そして、さらに、分会は被告に対し、同月二四日、同日付「要求書」をもって、原告に対する配転と自宅治療命令とを即時撤回し、もとの部署の工務管理部に復帰させることと、本件自宅治療命令中の賃金を健康保険で代替するのではなく、賃金として全額支払うこととを要求した。そして、分会は、同月二四日、右要求書と併せて原告についての笠谷医師作成の同月一二日付診断書を提出した。これには、原告の症状につき、現在経口剤によって甲状腺機能は略正常に保たれているが、重労働は控え、デスクワーク程度の労働が適切と考えられる、今後も月一回程度の通院治療を要する旨記載されていた。そこで、被告は、原告に対する対応を検討した結果、原告の本来業務は現場監督であるが、これが可能であるとは記載されておらず、反対に、デスクワーク程度の軽労働に限定するものとなっていたところから、現場監督業務復帰は困難であり、なお自宅治療を続けさせ、病気の回復を待つこととし、同月二五日、同日付回答書をもって、分会の右要求には応じられないとし、その理由として、本件自宅治療命令は原告が提出した診断書及び申告によるもので、分会が提出した一〇月一二日付診断書によると、病気は治癒しておらず、かつ現職復帰は困難である旨回答した。

5 本件現場勤務命令

原告は、平成三年一二月、当裁判所に本訴に先立ち賃金仮払仮処分命令の申請をし、この審理過程の平成四年一月二四日、原告側から原告訴訟代理人が、被告側から舩越本部長ら及び被告訴訟代理人が笠谷医師から原告の病状経過等を聴取した。この結果、前記認定の原告のバセドウ病発病と治療の経緯とが判明し、そして、笠谷医師は、原告が回議箋用紙に記載した症状は発病当時の状態を記載したものではないか、平成三年九月七日付診断書の症状ではない、但し、薬の副作用で貧血程度はあったかも知れない旨を述べた。このようなことから、被告は、原告の症状からこれ以上の本件自宅治療命令を継続しておく必要はないものと判断し、翌四年二月五日、同月四日付書面をもって、同月五日から本件現場において勤務することを命じた。そこで、原告は、同月六日から本件現場監督業務に従事することとなったが、被告は原告に対し、口頭で原告の勤務条件として、現場における通常勤務であること、業務は監督業務であることを指示した。

6 バセドウ病とこの治療

バセドウ病は、血中に甲状腺及び目の組織と結合してこれらに異常を引き起こす抗体が、甲状腺を過剰に刺激して甲状腺ホルモンを必要以上に分泌させたり、眼球突出を引き起こさせたりする病気で、症状としては、三大徴候といわれるものがあり、甲状腺の腫れ(但し、明確でないこともある。)、眼球突出(但し、患者の約二割)、頻脈があり、自覚症状としては、動悸、息切れ、手の細かな震え、異常な疲れ易さなどである。甲状腺機能が十分に落ち着いていない場合は、常に心臓その他が不必要に活動している状態にあって、機能亢進の程度や年令等によっても異なるが、活動を差し控える必要がある。そして、治療方法としては、薬物投与、手術、アイソトープの三つがあり、薬物投与治療は、薬物の正しい服用により甲状腺ホルモン濃度を正常値に戻す治療方法であり、服用期間は最低一年間継続する必要がある。薬物服用で容易に治癒する人もおり、これを止めると悪化する人もいるが、これでも一か月に約一度の受診検査を受け、これに合った薬物服用を継続することにより、格別の支障なく日常生活を送ることができるので、この治療方法で十分な人も多い。手術による治療は、甲状腺を一部残して切除する治療方法である。アイソトープ治療は、B・Tというヨードの放射性固定元素によって甲状腺ホルモンを分泌している甲状腺細胞の数を減少させることによって、ホルモンの分泌量を正常にする治療方法である。

そこで、本件自宅治療命令の適否について検討する。

右認定事実によると、被告が本件自宅治療命令を発出したのは、笠谷医師作成の平成三年九月七日付診断書と原告の被告に対する回議箋用紙による症状報告とを重視したことによるというのであり、これらによる限り、原告の当時の病状はかなり重いと判断されるから、一般的に、患者の病状は患者自身でなければ分からないことのある反面、患者の訴えが必ずしも医学上客観性を有するものでないこともまた経験則の教えるところであることを考慮に入れたとしても、被告が原告を本件現場監督業務に従事させるよりも治療に専念させるべきであると判断したことには相当な理由があるといえる。

ところで、本件自宅治療命令には、被告の原告に対する本件現場監督業務の就労を拒絶するとともに、病気治療に専念すべきことを命じる(但し、事柄の性質上、強制力を伴わない、勧告ないし助言程度の意味しか有しないと解される。)ものである。被告の右就労拒絶には問題のあることは後述のとおりであるが、原告は、当時、治療をなすべき病状にあったのである。このような場合に、被告としては、従業員の健康配慮義務及び職場の安全管理義務を負い、職場の秩序維持権限を有しているのであるから、原告に就労を認めるか否かの裁量権を有しているということができる。

したがって、被告の右就労拒絶自体が直ちに違法であると評価することはできず、これが違法であるといえるためには、就労拒絶が不当労働行為意思をもってなされた等の違法事由が存する場合に限られると解すべきである。

原告は、本件自宅治療命令は、原告において自宅治療をする必要がなかったにもかかわらず発せられたから無効である旨主張するところ、本件自宅治療命令のうち、病気治療に専念すべきであることを命じる部分は勧告ないし助言程度の意味しか有しないことは前述したとおりであるから、この必要性の有無を論じることには意味がなく、原告の右主張は、結局のところ、被告の就労拒絶の違法性、すなわち、これの不当労働行為性にあると解することができ、原告の本件自宅治療命令が不当労働行為で無効である旨の主張も同旨であると解する。

そこで、被告の就労拒絶の違法事由、すなわち、不当労働行為性について検討するに、前記認定した事実に原告の供述を総合すると、原告は、分会結成以来執行委員長の地位にあって、活発な組合活動を中心となって展開していたことを認めることができる。しかし、被告が原告の右組合活動を嫌悪していたとか、右組合活動を理由に原告を職場から排除する意思を有し、これがために原告の就労を拒絶したことを認めるに足りる証拠はない。

そして、他に右就労拒絶に違法事由のあることの主張・立証もない。

したがって、本件自宅治療命令が無効である旨の原告の主張は理由がない。

二 賃金請求権の有無

本件自宅治療命令に違法が認められないとしても、原告の賃金請求権の有無は、民法五三六条二項により被告の帰責事由の有無によって決せられることとなる。

前記認定事実によると、原告は、平成三年八月一九日、舩越本部長から本件現場勤務命令の発令を受けた際、同本部長に対し、病気で現場作業はできない旨述べながらも、同月二〇日から本件現場監督業務に従事していたというのであり、そして、原告のこの現場監督業務には、内容において重労働はできないこと、就労時間において残業は一時間に限られること、就労日は日曜、祭日等の休日出勤はできないこととの制限を伴っていたとはいえ、森永課長は、これらを容れて原告に本件現場監督業務に従事させていたのであり、このことに加え、職場の安全管理及び職場の秩序維持の観点から右就労を拒絶しなければならなかった格別の事情は認められない。そして、前記笠谷医師作成の診断書にも、病名をバセドウ病とし、「現在内服薬にて治療中であり、今後厳重な経過観察を要する」と記載されているのみであって、原告の労務提供の可否及び程度等については何ら触れるところがない。前記原告作成の回議箋用紙による症状報告には、前述したとおり就労制限について述べられているところがあり、なるほど、前記認定事実によると、その当時の原告の病状は、原告が右報告書で報告しているほどではなく、自覚症状が消失していたというのであるから、真実に反した報告をしたという点において責められるべきである。しかし、これ以上に、患者の訴えは必ずしも医学上客観性を有しないことは前述したとおりであるから、被告としては、被告の産業医等の専門家の判断を求める等のさらなる客観的な判断資料の収集に努めるべきであって、これを全くすることなく、右の診断書と症状報告書とを重視して原告の就労を拒絶した被告の本件措置には、些か軽率であったとの謗りを免れない。

このように考えると、被告の原告に対する本件現場監督業務の就労を全面的に拒絶したことは相当性を欠いた措置であったというべきであるから、被告は原告に対し、本件自宅治療命令期間中の賃金支払義務を免れない。

そこで、原告の賃金額であるが、先ず、月例賃金については、前記争いのない事実によると、計数上原告の主張する金額となる。

次に、冬期一時金については、前記争いのない事実に、証拠(甲七の一及び二、八、原告本人の供述)によって認められる原告主張事実とを総合すると、原告の基準支給額は七四万六七三六円となり、これから成績査定による減額分二万五一五二円を差引いた七二万一五八四円が支給額となるべきであった。

原告は、成績査定による減額分二万五一五二円は不当としてこれの控除をすることなく請求をしているが、右成績査定は被告の裁量に属することであるから、これに不当な事由が認められない本件にあっては右の控除をなすべきである。

したがって、この点に関する原告の主張は右の限度で理由がある。

よって、主文のとおり判決する。

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